貧乏生活で荒れた幼少期

セントラルの審査に落ちた母親と先生

【埼玉県/公務員/38歳/女性】
幼いころに両親が離婚してから、貧乏生活がはじまりました。私は母親に引き取られましたが、兄は父について行きました。家賃二万五千円のアパート生活は大変でした。風呂はなくトイレは共同トイレでした。

毎日同じ服を着て小学校に行っていましたので、よくいじめられていました。給食費すら払っていませんでしたが、先生は給食を食べさせてくれました。一番悲しかったことは、体育の時間でした。

我が家は貧乏でしたので、体操服すら買うことができませんでした。私だけ私服で授業を受けさせてもらっていました。母親は、パートに出て夜は配送の仕事をしていました。母親の苦労を考えると、体操服や給食費を払ってくれとは言えませんでした。

ある日、学校に行くと私の引き出しに封筒が入っていました。何かと思い開けてみると、中には一万円札と手紙が入っていました。手紙には「返さなくていいので自由に使ってください」と書いていました。

そして私の棚には見慣れない袋があり、中には中古の体操服が入っていました。私は胸が熱くなりました。誰がくれたのかはすぐに分かりました。担任の先生です。先生は私がいじめられていることを知って、何度も助けてくれました。先生には本当に感謝しています。

中学校に上がりましたが、学校には行かず近所の不良と遊ぶようになりました。

家にも帰らなくなりました。万引きや窃盗などは毎日のようにしていました。薬物にも手を出してしまい、仲間が集まるとシンナーやガスなどを吸っていました。ある時、街のスーパーで母親とばったり会ってしまいました。するといきなりビンタされました。何が起こったのか一瞬分かりませんでした。母親は帰ってきなさいとだけ言ってスーパーに入って行きました。

その日、私は家に帰り母親の帰りを待っていました。ふとテーブルの上を見ると山積みされた書類に気付きました。
その書類のほとんどが、消費者金融からの督促状でした。母親は多額の借金をしていたのです。別れた父の連帯保証人になっていたという事をこの時初めて知りました。

このままではいけないと思い、不良仲間と付き合う事をやめました。中学を卒業して高校にも通っていなかった私は、アルバイトをはじめました。生まれて初めてする仕事は、ガソリンスタンドでした。

店長の勧めで危険物の資格も取りました。勉強なんてほとんどしてこなかった私は、これを機に学校に行きたいと思うようになりました。そして小学校の時の先生みたいになりたいと思うようになりました。

お金を貯めて通信制の高校に通い、奨学金制度を利用して大学に行くことができました。無事に大学を卒業して、県立の小学校の教員になることができました。

ふと、小学校時代の先生が気になり、調べてみると退職したことが分かりました。当時の先生を知っている人から話を聞くと、離婚してから酒に溺れるようになり借金まみれだったそうです。

あのブラック歓迎と言われる、セントラルの審査にも落ちたそうです。セントラルの審査に落ちたということは、よほど借金まみれだったのでしょう。

私の母親もセントラルの審査に落ちたと言っていましたが、まさかそれほどの状況だったとは思いもしませんでした。

そのようになってしまっても、私の中では優しい先生です。

教員になって五年で、母親の借金を完済する事ができました。母親がセントラルの審査に落ちたと言っていましたが、私はセントラルの審査に落ちてよかったと思います。

もしセントラルの審査に落ちていなかったら、借金を五年で完済する事はできなかったでしょう。

母親も定年を過ぎ、今はゲートボールを楽しんでいます。幼いころ父に引き取られた兄ですが、再会する事ができました。

兄も私と同様荒れた少年時代を過ごしていたそうです。少年院にまで入っていたそうです。そんな兄も更生して、現在はスナックのボーイとして働いているそうです。

貧乏な幼少期でしたが、セントラルの審査に落ちた母親のおかげで今の私があります。当時は辛いこともたくさんありましたが、今となってはいい思い出です。

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